続・絹と明察
鵜舟の篝火に揺れる幻の宴

第八章:コマザワボウ衣川柵の戦い

智衣との愛を選べなかった修次郎は、その代償としてコマザワボウに骨を埋める覚悟を決めた。
それが、智衣の苦渋の選択に報いる真心の様に思われたからである。

その年の秋、
「シュウちゃん頼むわ」
久し振り掛かった声の主は、大阪支部長を退任する青野の後を継いで就任することとなった井元征之である。
支部執行委員になってくれと言うのである。
青野が抜ける以外は、大きな動きはなく、その穴を埋めるだけの人事であり、特別に断る理由もなく、引き受けることにした。

三年先輩の彼とは仕事の関係が深く、又個人的にも懇意になっていた。
ただし、九州男児で酒に強く、数々の武勇伝を持った井元とは、そちらでの付き合いはあまりなかった。
又、「人権闘争を戦った我がコマザワボウ労働組合は、労働界のいわば東大であるから、自信と誇りをもって取り組んでもらいたい」というのが口癖であった。
これには、多少違和感があった修次郎であったものの、敢てそれも口にすることはなかった。


全支部の執行部体勢が整うと、全員参加の研修会が模様された。
この時に、やたら目立つ若者がいた。
入社二年目だったにも関わらず、コマザワボウの明石家さんまとして有名だった石山史彦は場面場面で熱弁をふるっていた。
その熱意や容貌雄弁さから、人権闘争の先頭に立った若き日の中村書記長とタブって見えた。

「大阪支部の人は、本社だとか営業が会社を引っ張っていると思ってるかもしれないが、会社を支えているのは、朝早くから夜遅くまで二交代で働いている若き女子組合員だということを忘れないでほしい」
入社尚早の若者に説教を垂れられても、修次郎は敢て反論しなかった。
事実、彼もそう思っていたからである。

学生時代に二度にわたる長期バイトで、製造現場の大変さを体験していたし、入社後営業担当になってからも、現場主義の彼は、生産計画の変更時など、出来るだけ工場に脚を運び打ち合わせに心掛けていた。
その時には、必ず工場内を循環し、その女子従業員の働きぶりに敬意を評していたからで去る。
なにせ、新入教育で精紡の糸つなぎも出来なかった彼には、現場作業の大変さが身に染みていた。

尚、石山は、その後本社生産部の体験を経て、若くして組合本部の役員となり、後には組合長として長期に渡りその責を全うすることとなる。
何故か今でも交流が続いており、ちなみに、彼にはシュウさんと呼ばれている。


年が明けると早々から、社内の動きが慌ただしくなるのだった。
それまで好調だったMレディーの経営に暗雲が立ち込め始め改革一環として、信州飯田の丸編工場を本体のコマザワボウが引き受けることとなったのである。
創業当時は東洋一の規模を誇ると言われた立派な工場であるが、やがて重荷となってきたのである。
もともと、本体にも丸編み機械が存在していたのだが、それを移転して一か所にまとめられ、それを背景として新たに丸編営業部が誕生したのだであるが、紡績からの一貫体制で衣田が責任者を勤めることとなる。
が、このタイミングで営業部門全体の改変を検討する方向に徳之助が動いたのである。
同業他社が、そろそろ他業種への移行を検討し始めていた中でも、コマザワボウはあくまでも紡績業主体の路線を歩み続ける道を選択していた。
これは、長年の歴史と実績に著って築かれきた品質とブランド力であったからであり、それ故に、一層の紡績事業の強化の為にと紡績事業部制を考えたのである。
つまり、レーヨン事業も含まて、原料から労務、製造、販売を一本かしようとのである。
そうなると、工場の生産管理と労務担当の大川の存在が大きくなる。
これには、当然、衣田が反発したのである。
紡績糸営業を取り上げられ、代わりにお荷物の丸編み工場の面倒を見させられるは割があわない。
そう考えるのは当然であろう。

ここで徳之助は、次の一手として労働組合を引き込みことで、強引に事を運ぼうとしたのである。
ここまで拘る背景には、駒沢家の事情が影響を与えていたのだろうか。
一時的ではあろうが、本家筋になる前社長善次郎の長男剛に社長の座を禅譲する必要があり、その時期を考え始めていたのであった。
剛は、紡績に強いこだわりを持っていないと見た徳之助は、その為にもなんとしても強固な紡績事業体制を整えておく必要があり、そこで、紡績事業部制を考えたのである。
その意味では、衣田と大川を天秤に掛ければ、大川を選択するのは当然であろうと修次郎も考えるが、そもそも事業部制にすること自体が、果たして正解であったか否かは微妙な処ではあった。


一方、組合本部では秋の大会に向けて、矢作が組合長から身を引き、代わりに彦根支部長の斉木が就任し、書記長を勤めていた若手大卒枠のMレディー出身者小玉が会社再建の切り札として会社に戻り、代わりに丸編み営業の外町が入る人事が勧められていた。
これには、中村書記長が裏で動いていたのである。
当時、組合員減少が進む中なで組織のスリム化が図られ、大阪支部は専従者が無くなる方向で勧められていた。
その為、大阪支部弱体化を避ける為に、大阪支部出身を本部書記長の後釜に据え、支部活動の補佐が出来る様にと考えたのである。
が、当時の大阪支部の中の同年代者は、それぞれの職務に於いて中心的な存在となっており、会社側が認めないであろう。
そこで、外村に目を付けたのである。
ちょうど、工場から本社丸編み営業に配属された彼ならと見込んだのである。
衣田にしても、自分の息の掛かった者が本部の書記長に収まれば、大川に対抗する大きな武器となる。
また、外村自身も、将来見通せない営業配属より、組合本部書記長から将来の組合長コースは魅力的であったと言えるであろう。
という三者三様の思惑を背景として、この計画は勧められていたのである。

が、この動きに、徳之助が待ったを掛けたのである。
組合の力を借りるには、やはり矢作体制の存在が大きかった。
争議以降の経緯を踏まえると、大垣工場支部出身の矢作の力が必要であり、彦根支部の斉木では頼れないと思ったのだろう。
やがて、徳之助に口説かれた矢作が翻意して留任を主張することとなったのである。

こうなると、組合役員人事が狂ってくる。
喧々諤々の末、組合としても各工場の将来は存亡に関わる問題であるから、徳之助の判断に同調せざるを得ないとの方向で調整が進み、副組合長の金田が書記長に廻り、空いた副組合長に斉木を据える妥協案に落ち着くこととなる。
この玉突き人事により、小玉の代わりに外村が入る案は消滅したのだが、この動きは、大阪支部にも大きな影響を与えることとなったのでる。
専従者だった中村書記長は、上部団体への出向が内定しており、今更元には戻れない。
よって、大阪支部は専従者がいなくなり、又確たるバックアップ体制も整わない状況を余技されることとなり、この戦いの一番の犠牲者と言えるのではないでろうか。


矢作体制が継続し、自分の息の掛かった人間を書記長に送り込めなかった組合本部人事は、衣田に大きな打撃を与え、彼の抵抗も空しく散る事となったのでる。
「大川に負けた」
最終決定の役員会を終えて自席戻った衣田が、ゴミ箱を蹴飛ばす瞬間を目撃した修次郎は驚いた。
普段温厚な彼がここまで感情を露わにしたのは、修次郎の運命を変えたあの人事異動問題以来だろうと思った。

修次郎はこの二人の戦いを平安時代後期に奥州で起こった前九年の役に擬えて、コマザワボウ衣川柵の戦いと名付けた。
前九年の役とは、奥州陸奥国で勢力をつけた安倍氏とそれを抑え様と朝廷から派遣された源頼義,と義家父子が戦い、当初劣勢だった源軍が隣国の出羽国清原氏を味方に引き入れることで流れが変わり、勝利に導いたのである。
これにより、武家勢力が台頭する切っ掛けとなり、日本史上の大きな転換転だと言われており、中でも衣川柵の戦いが最大の山場であった。
当に、紡績糸販売部は衣田の牙城であった故、この攻防戦はコマザワボウの将来を決定つける戦いだった事に間違いはなかろう。

後に、清原氏の内紛から起こる後三年の役を経て、栄華を極めた藤原三代が100年に渡って続くこととなる切っ掛けとなる事件であり、1993年前半には、NHK大河ドラマで、「炎立つ」として放映されたが、マイナーな存在からか、視聴率は上がらず、二度と取り上げられる事はなくなった。
尚、コマザワボウでは後三年の役は起こらなかった。


二人は揃って常務に昇格するのであるが、その力関係は歴然としていた。
やがて、徳之助が代表権を有した会長職に退き、剛社長誕生とともに大川は専務に昇格し、衣田は社を去ることとなった。
その剛社長が短命で終わると、その後釜に大川が座る事となのであるが、丸編み販売部の発展に執念を燃やした衣田の流れを汲む人脈が、後々コマザワボウの主流となるのであるから、実に皮肉なものである。

尚、労働組合では矢作長期政権が続くこととなるのであった。



第九章へ続く


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