続・絹と明察
鵜舟の篝火に揺れる幻の宴

第六章:さよなら青春と何でも屋

修次郎の新しい職場への初出勤日に直属の上司たる係長青野信正は不在であった。
この時、当に春の賃上げ闘争の真っただ中であり、彼は大阪支部長として中央執行委員会に臨んでいたのである。
朝の朝礼で前に立ち、全員に紹介されて挨拶を終えると、次長から簡単な説明を受け、あとは、アシスタントの女子社員黒木洋美が頼りであった。
彼女が昨年の入社時には修次郎が教育を担当していたのであるから、一年で一気に立場が逆転したのである。
こうして、賃上げ交渉妥結迄の数日間は、不安な日々を過ごすこととなった。

青野との接点はそれ程なかったが、彼が支部長となり新体制をスタートさせる時、
「執行役員になってくれないか」
と直々に声を掛けられた事があった。
人事課員という立場で組合の役員を勤めることに少々抵抗感を抱いた修次郎が、荒川に相談を持ち掛けると、
「執行委員なら止めておけ、どうせやるなら三役だが、まだ早すぎる。いずれ君の出番が来るから、慌てずにそれまで待て」
とのアドバイスを受け、丁重に辞したのである。
事実、その予言通りに十年後には支部三役に就任することとなる。

また、修次郎達の職能級問題に関して交渉ごとになった時には的確な処理にあたってくれた。
それまで、大学採用者の職能級は7級であったが、修次郎の入社年からいきなり8級となり、年功昇級まで7年を要するという制度に変更になっていたのである。
入社当時は、その知識も無く、該当者も少なく話題になることも無かったのであるが、その後該当者が増え、本社への転勤者も増えてくると、大きな不満の声が上がるようになったのであるが、そもそもが組合主導での制度変更であったので、少々話がややこしかった。
そこで、人事課員である修次郎に要望が強まり、代表者して人事課課長と異例の直接交渉事にあたることとなったのであるが、ここに会社と組合本部との調整役として青野が間に入り、救済処置として段階的に一年ずつ移行させ、最終的に7年という事で解決を見たのである。
結果、修次郎の年代は即昇級となった。

又、彼から発せられた修次郎に対する第一声は、
「営業は理屈でないから教えようがない、自分のスタイルを作ってくれ」
これは取りようによっては、少々無責任で突き放す様な発言であったが、却って修次郎には有難かった。
何故なら、彼は、一から十まで手取り足取りという手法が苦手だったからである。
また、その言葉に裏には、
「何かあったら俺が責任を取る」
直感的に、タイプは違えど荒川と同類の匂いを感じ取っていたのである。
この後、約30年に渡り彼の下で働くこととなるのであるが、それは決して間違いでは無かった。
そして、50年を経た今も尚、交流は続いている。


社内は勿論であるが、対外的にも日々新しい出会いがあり、修次郎には何よりの楽しみであった。
彼の所属係は、レーヨン綿とポリエステルを中心とした合繊メーカーの綿との混紡糸を中心とした製造販売であり、商売形態から賃坊と呼ばれていた。
つまり、紡績糸の生産数量と紡績工賃の交渉である。
契約は間に商社を入れるスタイルが一般的であったが、見方を変えれば、両者の間を取り持つのが、商社機能の一つと言えた。
尚、紡績工場は新入社員教育を受け、糸つなぎに苦労した彦根工場であった。

同じ混紡糸でも合繊と綿との混紡糸は綿混と呼ばれ、こちらは三年先輩社員の山尾隆志が担当していた。
彼は、新入の工場勤務時代には、コマザワボウの若大将と呼ばれたという噂のある、加山雄三を彷彿させるスポーツマンタイプの好青年であった。
中日ファンの彼に誘われて、甲子園球場のタイガース対ドラゴンズ戦をナイター観戦して以来、子供の頃からずっと巨人ファンだった修次郎が、なぜかドラゴンズファンになり、やがてドラキチにと変身していく切っ掛けを作った運命の男でもあった。

その彼が、突然に家庭の事情で退職することになり、それを修次郎が引き継ぐこととなったのである。
未だ、不慣れな環境下で心強く感じていた先輩を失い、更に仕事の範疇が広がることに少々不安と戸惑いを思えたのであるが、それはすぐに喜びに変わった。
何故なら、更に新しい出会いの機会が増えたからである。

やがて、合繊混紡糸として、窓口が一本化される迄、一時的にもう一人の係長吉川という二人の係長の元で仕事をすることとなった。
この二人は実に対照的であり、何かと戸惑うことも多かった。
又、吉川はパワハラ気質でもあったが、それはそれで、この時の経験が後々活かされることとなる。

新しい仕事と人間関係の構築に追われる日々であったが、それでも、裕子を失った心の大きな穴を完全には埋め切れてはいなかった。
そんな時に、
「シュウちゃん頼むわ」
久し振りに声が掛かったのである。

今度は、青年婦人委員会なる組織の立ち上げを任されることとなったのである。
略して青婦委員会は各工場支部には存在していたのであるが、大阪支部には未だ存在していなかったのである。
支部執行部には担当役員が存在し、女子組合員が就任するのが、恒例となっていた。
何故なら、青年たる男子組合員は独身寮住まいが大半を占めており、そこには自治会が存在していたので、こちらが窓口で問題解決が図られており、青婦委員会が携わるテーマが少なかったからではないかと思われる。

これは、この時の修次郎には、もってこいの話であった。
青年は30歳未満の独身男性との資格制限があり、20代の残り期間を青春の思い出としてやり切り、それをもって一旦組合活動と一線を画そう考えたのである。
それは、支部長である係長と係員が揃って組合活動に従事するのは如何なものかと考えての事であったが、下部組織の青婦活動であれば問題なかろうと判断を下した。
尚、婦人には年齢制限、既婚未婚の制約はなかった。

早速、メンバー集めから、当に一からの活動開始である。
この時、危うく彼は大きな間違いを犯すところであった。
実はこの年の新入女子社員の中に、密かに心惹かれる女性が存在していたのだ。
福山睦美、吉永小百合に似た好みのタイプであり、しかも胸が豊かであった。
かといって、修次郎は、俗に言う処の熱烈な小百合ストではなく、ただ学生時代に何度か映画館に足を運んだことがある程度だったが。

早速、お好み焼きに誘い、勧誘を行ったのであるが、
「帰って、両親と相談します」
と言って、その場での態度を保留され、
「反対されました」
即刻翌日には、期待を裏切る冷たい返答を受け取ることとなった。
やはり、コマザワボウの労働組合ということで、過激なイメージを持たれた様であるが、結果的にこれは正解だったと思われた。
何故なら、メンバーの中に、特別な感情を抱く女性がいては、運営は上手く運ばなかったのではないだろうか。
「人事に私情を挟んではいけない」
あの荒川の言葉を改めて思い返す修次郎であった。


中学、高校、大学生時代を通して部活の経験が皆無に等しかった彼にとって、青婦委員会は初めて体験するクラブ活動のような感覚であった。
中学入学時には剣道部に入ったのであるが、先輩から見舞われる竹刀の手洗い歓迎に耐えきれず、即刻退部である。
キャプテンからは素質があるからと引き留められたのであるが、いかんせん、他の部員がワルの集まりって感じであり、到底耐えられなかった。
その後、小学からの友人に誘われ、軟式テニス部に入ったのであるが、ここでも、ラケットの素振りと球拾いとコート一周のうさぎ跳びの日々に耐えられず、夏休み前に退部したのである。
彼には、たかが一年や二年先に生まれて入学したというだけで、何故にこの様な差があるのか、納得が行かなかったからである。

「自分が嫌なことは他人に対してやらない」
子供の頃からの母親政子の教えと、
「組織を動かすのは人であり、人が動ごくのは説得ではなく納得である」
これは、 高校三年生の体育祭で、応援団長を引き受けた時に父吉郎から送られたアドバイスであった。
オーケストラの指揮者が、たった一本の細い指揮棒を操って数十人の大楽団を率いて名演奏を繰り広げ、何百人という観客を魅了させられるのは、決して自分の世界を押し付けるのではなく、演奏者の一人一人と徹底的に話し合いにより、音楽観、表現法を納得しあうからこそ可能だという。

自分の体験も含めて、この二つの言葉を意識して、できるだけ先輩風を吹かせることなく、同じ目線での対応を心掛けていた。
それ故に、彼が最年長者であったが、あえて、委員長には就任しなかった。
自身は事務局長として裏方に回り、後輩の育成を第一としたことにしたのである。
「組織のTOPの最大の仕事は後継者を育てることである」
という名言も心に浮かんできた。

委員長には、勿論、全員の総意として敢えて最年少の森道隆に声を掛けたのであるが、当然のように辞退されたものの、最終的には納得して引き受けてくれた。
とは言うものの少々不安ではあったが、設立総会で堂々と演説する姿をみて安堵したのである。

メンバーは日頃から組合活動に積極的であった顔ぶれが揃っただけに、定期的に研修会を開くなど意識が高く、単なる支部執行部の下請けでは嫌だという意向が強かったので、その意向を十分に組んで、常に執行部とのすり合わせを怠ることの無い様に心掛けた。


当時の女子社員は、基本的に自宅通勤の高卒採用者であり、寿退社が一般的であったので、平均年齢は25歳にも満たなかったであろう。
又、もっぱらの関心事は更衣室と制服ユニフォームであった。
当時は更衣室の十分な確保が来ていなかったが、御堂筋に面した一等地に建つビルの限られたスペースの中で、従業員の数が増えるわけだから当然である。
それでも、テキスタイル、製品部門が子会社化され、別ビルに移ると多少の余裕ができて、更衣室が拡張されることなったのであるが、依然として環境は恵まれているとは言えなかったようだ。

女子社員にとって更衣室は男性社員には理解できない特別な存在だった様だ。
仕事でミスをしたり上司から叱責されたりした時は一人涙し、また、女性特有の体調不良の時には体を休める等、ほんの一瞬でも心と体の癒しができる、言うなれば、駆け込み寺の様な存在だと裕子から教えられたことがある。

又、映画やTVドラマの中では、ゆったりしたスペースで和やかな雰囲気の更衣室で会話しながら着替えるシーンが描かれることがあり、男性にはお色気さえ感じさせる演出となっているが、現実は全く懸け離れており、特に始業前は一分一秒を争う、当に戦場の様で、絶対に男性には見せられない世界だと聞かされたこともある。

そんな中、今度はその更衣室の時限閉鎖問題が勃発したのだ。
就業中の更衣室での雑談が目立つと総務からクレームが付き、昼休みと午前10半からと午後3時からの15分間以外は閉鎖すると通告がなされたのである。
これには多いなる不満の声が上がると同時に、女子社員間で、個人の名前を挙げて非難するような事態迄生じるに至った。
女子社員にとって、時限的とはいえど更衣室の閉鎖は、あの人権闘争時に於ける食堂閉鎖に匹敵する様な大問題であったかも知れない。

これで分断を生むのは不味いということで、婦人部が中心となり自主的に会合を開き、止む負えないえない場合を覗いて自粛するという方向でまとめ、支部が会社側と交渉して、なんとか閉鎖という最悪の事態を避けることが出来たのである。


たかがユニフォーム、されどユニフォーム。
最大且つ永遠のテーマがユニフーム問題であろう。
一般的に、企業にとってはイメージの向上 社員には毎日の服装選びの負担軽減が削減できるというお互いにメリットとされるユニフォームであるが、紡績工場の現場は作業着であり、作業効率とか安全性などの視点で捉えられ、本社オフィスの女性社員は、単なる事務服だという会社側の意識が、大きな壁となっていた様に思われる。
当時、御堂筋に面した一流企業でオシャレなユニフォームで働くことがステータスになっていた時代であるが、その点、コマザワ紡本社の状況は微妙であった。

デザインとか素材云々の前に、無償貸与か支給かと更新頻度と枚数問題が横たわっていた。
組合側は、基本、無償支給であり、会社側は無償貸与に拘った。
せめて、二着と望んでも一着の無償貸与と頑なに拘わり、最後まで平行線をたどることとなる。
そんな中、日頃からくすぶり続けるていた工場勤務の中卒女子との待遇面での格差に対する潜在的な不満に火をつける様な事態が起こったのである。
なんと、中卒者の勤続表彰制度として、ハワイ旅行が実施されることとなったのである。
私達もハワイ旅行迄は望まないけど、せめてユニホームだけは、との機運が一気に高まったのである。
さすがに会社側も譲歩を余儀なくされ、二着貸与の線で合意する方向になったのであるが、最後の土壇場になって最終責任担当役員大川が翻意したのである。
総務からの稟議書書に印鑑を押しながら、
「これは承認印ではない、単に目を通したというサインだ、だから、横向いているだろ」
なんて、無茶な話を言い出したのである。
当に、ちゃぶ台返しだ。

そんなバカな、てことで交渉が再開されたのであるが、頑として承認しない。
最後は、組合本部まで巻きこんでの闘争となったのであるが、いかんせん本部にしても、数千人の組合員の中で、たかだか大阪支部の200名程度、その中の半数程度の女子組合員のユニホーム問題に、正面から会社側とぶつかることはできないであろう。
こうなっては、大阪支部としても為す術は無く、これ以上総務を責めるのも得策ではないと判断せざるを得なかった。
こうして、この後も常にくすぶり続けながらユニフォーム制度が廃止される迄、一着貸与の形が続くこととなったのである。


また、女子社員による朝の早出当番制度も話題となった。
当時は、各職場毎に女子社員交代により、掃除と朝のお茶出し当番制度が出来上がっていた。
勿論、手当は出ない。
ところが、総務課だけは郵便物の受信と社内配達の業務があり、こちらは職務であるから手当が出ていたのである。
これでは不公平であるとの声が広がり
結果、早出掃除当番制度は廃止され、机は各自が整理し、お茶出しも無くなったのである。
これは当時としては画期的な出来事であったのではないかと思われた。


明るい話題としては、OLプラザであろうか。
御堂筋に面した会社のOLが中心となり、昼休みの時間帯に御堂筋の側道を閉鎖して歩行者天国を実現したのである。
食後にのんびり散策したり、バトミントンに供したり、銀杏の木の下で歓談したりと和やかな昼休みを風景が観られた。
この活動にも、コマザワボウ労働組合大阪支部は中心的な存在として活躍していた。
尚、これが発展して、後々の御堂筋パレードに発展したといわれている。

その他、従来からの年中行事に関しては青年部主体となり実行されるととなり、又新たな企画も提案から実行にと移されて、一歩ずつ実績を積み重ねていった。


こうして、組織の基礎造りを終えると、三十路を迎える前年の秋に開かれた青婦委員会総会をもって事務局長を辞し、同時に組合活動から距離を置く事となる。
そうなれと必然的に、入社以来、皆から愛されてきた何でも屋の看板は外され、閉店ガラガラと幕を下ろすこととなったのである。


第七章へ続く


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