鵜舟の篝火に揺れる幻の宴 第三章

社会人一年生の春夏秋冬

入社当時のコマザワボウ大阪本社内の雰囲気は若くて活気がある職場として修次郎の目には映っていた。
それは、この数年でテキスタイル部門や二次製品部門が拡大しており、正規の学卒採用だけでは人材が不足をきたし、折りに触れ中途採用がなされいるので、営業部門を中心に若手社員の存在が目立っていたからであり、又、人権争議を思想的にリードしていたとされる大卒の若手社員達は40代前半の働き盛りを迎え、皆それぞれ管理職となって要職を占めていた事も要因であっただろう。

彼が配属された人事課長浦順次は上品で温厚な性格の東大卒のエリートであったが、彼も闘争の中心人物だったと聞かされて意外だったのだが、関連部署の課長渡瀬吾郎が初代組合長だったと知った時には、その穏健そうな風貌や物静かな言動からは、激しい闘争の先頭に立つ勇ましい姿は到底想像が出来なかった。

人事の内情としては、会社側に付いていた者との間に、微妙な処遇の差が生じているようでもあった様だが、徳之助にしてみれば、会社を混乱させ窮地に追い込まれてしまったのであるから、当然、何らかの蟠りがあっても不思議ではないだろう。
又、あの人は組合派だったとか会社側だったとか、時に噂話を耳にすることもあったし、デモ隊の投石を受けて目に障害が残っている等と言う生々しい話しを耳にした時には、未だ消え去らぬ闘争の深い傷跡を実感じさせられたものである。


一方、労働組合はコマザワボウ本社内の一角を会社側から借り受ける形で本部事務所を構えて居た。
本部役員は皆専従者であり、各工場支部で闘争の中心を担っていた活動家であったが、争議後の会社再建に向かって、当初は銀行主導派だった組合から、いち早く駒沢家に拠る再建派へと舵を切った大垣工場支部と連れて内部を分裂を経て駒沢家支持に回った彦根支部に対し、津工場を中心としたその他工場支部の間には確執が残っていた様っである。
尚、当時の三代目組合長鈴元史郎は中津川工場支部の出身であった。
そして、件の大槻青年は彦根支部長を務めていたが、三年後に四代目の組合長に就任することとなる。

「シュウちゃん、頼むわ」
此の後、何度となく聞かされる事となる言葉が始めて修次郎の耳に届けられたのは、メーデーから一週間程経った日の昼食後の休憩時だった。
声の主は中村由紀夫、コマザワボウ労働組合大阪支部専従書記長である。
大阪支部は本部事務所の片隅に机を二つ並べた手狭なスペースの中で、書記長と女性書記の二人が専従者として従事していた。
残りの役員は非専従者として会社業務との掛け持ちであった。

絹と明察では、彦根工場が舞台となっているが、実は、労働争議で最初に立ち上がったのは、同じ滋賀県でも長浜の職布工場であり、彼がその中心メンバーであった。
争議後の業績不振から職布工場が閉鎖されたことから、彼は大阪本社支部専従書記として転勤してきたのである
背景は良くわからないが、これは異例の人事であったのではないだろうか。

優れた理論と行動力を兼ね備えており、兎に角、明るいキャラで誰彼と無く積極的に声を掛けて接する彼は大阪本社支部だけでなく全社的に有名であったが、それだけに留まらず、上部団体や外郭団体にも広い人脈を誇っていたのである。

同じ中村性なので、修次郎の事を中村君とは呼びにくかったのであろうか、いきなり「シュウちゃん」と来たのである。
これが切っ掛けとなったのであろうか、愛称シュウちゃんが一気に本社事務所内に広まっっていったのである。
シュウやんとかシュウさん、シュウジ君が一般的であったが、時にはシュウジと呼び捨てにもされたり、又女子社員や年々増えていった後輩からはシュウジさんと呼ばれることが多かった。
時には一部の女子社員からシュウ様と呼ばれた時もあったのである。
後々2000年代の韓流ブームでヨン様が大人気となった時には当時を懐かしく思い出し、「あの時が俺のモテ期だったのかな」
と一人苦笑いしたものである。

さて、書記長からの頼まれ事というのは、
「新入歓迎ハイキングをやるから、実行委員になってくれないか」
というのであった。
「私は歓迎される側で、なんで実行委員にならなきゃならないんですか?」
当然の様に不満というか疑問を呈する発言が修次郎の口を突いて出るより早く、
「じゃ、明日の昼休みに会議室に集まってな、頼みます」
そう言い終えると、踵を返して足早に立ち去ってゆく後ろ姿を、ただ唖然として見送るしかなかったが、思えばこれが、なんでも屋修次郎誕生の瞬間であった。


その年のお盆も過ぎ、秋の気配が漂い始めた早朝の青森駅に到着した上野発夜行急行列車八甲田号から降り立った修次郎の姿があった。
新入社員としての配慮から、職場で最後に取得した夏休みの一人旅であり、目的地は津軽半島の先端竜飛岬である。
前年、友人と二人で学生時代最後の想い出の旅とした東北一周旅行では、スケジュール的な事から断念せざるを得ず、大事な忘れ物をしてきた気持ちでいたのであるが、その背景にはどうしても訪れたい、いや訪れなければならない特別な理由があったのである。
それは、ある女性への秘めた淡い恋心の未練を綺麗さっぱりと捨て去る事。

実は大学三年の夏休みに、学友の父親が経営する工場で寮に住み込みの長期アルバイトをしたのであるが、そこは、春に経験した女子中心の縫製工場とは打って変わって、大型扇風機に煽られながらグラインダーでミシンの部品を削る男だけの汗臭い劣悪な職場環境であった。
が、共に中卒従業員が主体の職場であり、又、労働組合も存在し無いという共通点はあった事から、後々、紡績工場勤務の経験無く労働組合活動と向きあう事となる修次郎には良い経験を積んだ一年となったと思われるのだが。

その様な慣れない環境下でバイトに励む彼を不憫に感じたのであろうか、何かと可愛がってくれた寮の管理人を兼ねた年上の女性事務員松川民代は三年前に母を亡くしていた修次郎に母性を感じさせる大人の女性であった。
その彼女が津軽半島の出身だったのである。

「いつまで寝てるのよ、起きなさい」
と言いながら頬を軽く叩かれるが嬉しくて、毎朝、狸寝入りをしていたものである。
週末には、
「洗濯してあげるから出しなさい」
と言われても絶対に出さなかった、いや、恥ずかしくて出せなかったというのが正解であろう、わざわざ毎週末下宿まで洗濯物を持って帰った程に純であった。

又、昼休みには一緒に卓球に興じ、終業後に度々近くのお好み焼き店に誘ってくれ、
「若いんだから、沢山食べなさい」
と言いながら、いつも自分の分を半分に切り分け彼の前に運んでくれるのだった。
そんな時には、決まって竜飛岬の話しを聞かさてくれたである。
今でも、お好み焼きの鉄板と向かい合う度に、当時の光景が懐かしく思い出される。
工場から請われる侭に期間を夏休み一杯に延ばしたものの、やがて八月が淡い夏の日の恋を連れて去った。

青森駅から津軽線に乗り換え終着駅三厩駅に着くと、そこからは竜飛岬を目指す、当に岬巡りのバスに揺られる旅である。
灯台の立つ半島の先端から津軽海峡の海底深くに失恋の傷跡を沈め終えると、その日は一旦青森駅まで戻り、下北半島の根元に位置する野辺路駅前の旅館で静かな夜を過ごして、翌朝早々に出立すると、途中、恐山を経由して本州最北端の地である下北半島先端の大間崎を目指したのである。
尚、この時の宿泊料が素泊まりで800円だったことを今でも覚えている。
そして、早朝の出立にも関わらず、宿から供せられた心の籠ったおにぎりの味も忘れられない。

竜飛岬と異なり、大間崎は何ら特徴のない場所で、現地の方には少々失礼ながら印象が薄い観光地であった。
ただ、本州最北地の石碑の横に立ち、本州最北地を制したという感慨だけは鮮明に残っている。
又、すぐ目の前に感じる函館山を眺めながら、来年は北海道だなと心に決めたのであるが、実際に彼がその地に一歩を記すのは、この後四半世紀後、コマザワボウ退職の年となるのである。

「来年は先輩の会社を受験します」
この道中ですっかり意気投合し、将来を見込んだ大学三年生の一言を職場への旅の土産げとして、修次郎は青森発上野行き夜行急行列車八甲田号の車中の人となったが、車内は略満席状態であったので、窮屈な座席を避けて新聞紙を床に引き、その上に体を横たえると直に心地よい眠りへと誘われていったのである。
まさか、とんでもない大事件が彼を待ち受けているとも知らないで。


独身寮に戻った彼を出迎えたのは、
「大山君、一緒じゃなかったの?」
寮の管理人後藤初枝の一言であった。
なんと、同期入社で一緒に大阪本社勤務となった大山啓介の姿が見当たらないというのである。
修次郎が旅立つと同時に姿が見えなくなったので、ひょっとして一緒に二人で旅行に出たかも知れないので、取り敢えず修次郎の帰りを待つという事になっていた様である。

集まった先輩達からの矢継ぎ早の質問からやっと解放されて自分の部屋に戻り、ベッドの上に疲れた体を投げ出して、最近の大山に想いを巡らし始めると、気になることが浮かんできたのである。

彼は地方の国立大学出身のシャイで少々斜に構えた処のある男であった。
又、ギターが得意で、彼がトレモロで奏でる名曲アルハンブラの想い出を始めて耳にした時、修次郎は感動と共に尊敬の念さえ抱いた程である。
当時の若者は皆ギターにあこがれたものであるが、禁じられた遊びに始まり、最初の関門であるFコードの壁で挫折するのが一般であったが、かくいう修次郎もその一人であった。

ギターはダメな修次郎であったが小学校以来ハーモニカが得意であったので、週末の夜になると、大崎のギターとの合奏で二人きりのミニコンサートなるものを楽しんでいたのであるが、特に修次郎のハモニカでイントロを奏で、彼のギター伴奏で歌い、上手くハモらせるビリーバンバンの白いブランコがお気に入りで、常にアンコール曲となっていた。
が、半月程前の夜の事である。
「あの人をみていると、20年後の自分をみている様で夢も希望も持て無くなってくる」
いつもの様に気分よく歌い終えて何故か会社の話題になった時、彼がポツリと寂しげに呟いたのである。

彼が配属された職場は、社内でもっぱら強権部長で有名な、当に昭和の典型的なパワハラ体質のテキスタイル部門であったのだが、特に一人の次長に叱責が集中されていた様である。
その姿を、日々目の当たりして自分の将来の姿が重ねられたのであろうか。
数日して、修次郎宛に大山から郵便物が届けれられた。
概ね修次郎の推察通りの事情が綴られ、後の事は宜しく頼むと締めくくられた手紙と共に、退職願が同封されていたのである。

修次郎の説明により状況を把握した人事課としては、職場の環境問題が理由として問題が大きくならないように、あくまでも一身上の自己都合退職として穏便に処理することとし、彼もそれを由としたのである。
今でも、白いブランコを聞く度に、シャイでチョッと気障だった大山の微笑みが胸で揺れる。


その年も晩秋を迎えた深夜の名神高速道路を東に向かうバス集団の一台の最後尾席に押し込められた修次郎の姿があった。
数日前に例によって例のごとく、
「シュウちゃん頼むわ」
東京までデモに行ってくれと書記長からお声が掛かったのである。

日米政府間繊維協定がいよいよ締結の方向で動き出した状況下、国会を取り囲んでゼンセン同盟全国決起集会が行われることとなり、大阪からも傘下の組合から集い、終結するというのである。
そこで、コマザワボウ労組代表として修次郎に白羽の矢が立ったのである。
この時始めて、修次郎は組合欠勤という制度を知ったのであるが、これは組合の行事で会社業務を抜ける時は賃金カットされ、その分を組合が補填するという制度である。
以後、何かにつけて、この制度のお世話になることとなるのだが、最後の最後まで、どうしても欠勤という言葉に違和感を禁じ得なかった。

国会は中学の修学旅行で訪れて以来であったが、当然その時とは異なる雰囲気で、騒然として殺気だった集団により、シュプレヒコールを上げたり、激しいデモ行進が繰り広げられたのである。
恰も映画「立ち上がる女子労働者」の世界に迷い込んだかの様に感じられ、労働組合運動の厳しいい一面を始めて垣間見た気がした。
そしてこの経験は、彼の後々の組合活動に大きな影響を与えることとなったであろう。

が、しかし、労使揃った業界上げての抗議行動や世論の後押しも空しく、1972年1月3日に締結された日米繊維協定により、コマザワボウを始めとする紡績業界だけではなく、日本の繊維産業そのものが衰退の一途を辿り始める事となったのである。
しかも、これはただ単に繊維産業だけに留まらず、今日まで続く日米経済摩擦の始まりだったとも云われている。
そして、その年に5月15日には沖縄返還という歴史的な日を迎え、「日本は糸を売って縄を買ったと揶揄されることとなるのである。


冬には白銀のゲレンデに颯爽と立つ修次郎の姿がった。
一年上の先輩グループに誘われて信州の野沢温泉迄、人生初のスキーツアーに出掛けてきたのである。
スポーツ神経には少々自信があったのであるが、実際にスキー板を履いて雪の上に立ってみると全く勝手が違い、自分で描くイメージとは程遠く全身雪塗れになり、当に悪戦苦闘の世界であった。

初日で完全にギブアップし、翌日は同じ脱落組の先輩石野由英と二人で、朝からノンビリと温泉に浸たり、慌ただしかった入社一年目を振り返りながら温泉旅行気分を味わい、帰路に付いたのである。
尚、彼とはその後も何かと縁があり、後には一緒に大阪支部三役を務めることとなる。

この時には、もう二度と雪に塗れる事はないだろうと思ったのであるが、その後の様々な出会いもあり、1980年代に巻き起こるスキーバブル期に向けて、どっぷりと嵌り込んでいくこととなるのであるが、切っ掛けは組合支部主催のスキーツアーであった。
又、この支部スキーは、これからの修次郎の将来を左右する重大なキーワードになるのである。


第四章:労使協調路線と福利厚生に続く


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